「新しいTechnicsのイヤホン、絶対に欲しい!」「もう予約しました!」
発売が発表されると同時にSNSで続出したこれらの声は、磁性流体ドライバー搭載 完全ワイヤレスイヤホン「EAH-AZ100(以下AZ100)」に向けられたもの。
そんな話題のイヤホンの音響設計を手掛けたのは、入社6年目の若手エンジニアである田中悠(たなか・ゆう)。彼の音づくりへの信念と技術力の背景には、ある原体験と、レジェンドと称される小長谷賢(おばせ・さとし)の存在がありました。
本記事では、そんな2人の世代を越えた協力関係に着目。そして中盤では「小長谷さんに聞きたい5つの質問」をテーマに、手紙によるやりとりも掲載します。
音のテクノロジーだけでなく、開発の根底にある「音の美学」と「技術の継承」のストーリーをお届けします。
Index
「レジェンドの音」と出会い、音を継ぐ喜びと試練を知る
――磁性流体イヤホン生みの親である「小長谷さん」との出会いについて、教えてください。
田中私が入社した2019年の11月に、新生Technicsとして初となるイヤホン「EAH-TZ700(以下TZ700)」が発売されました。その音を初めて聴いたときの衝撃は、今も忘れられません。表現する言葉が見つからないくらいの感動体験でした。
田中社内でもレジェンド機器のように位置づけられているTZ700の音をつくりあげたのが、大先輩の小長谷賢さんです。当時、新入社員だった私にとっては雲の上の存在。そんな人と5年以上も一緒に仕事をできているのは大きな喜びですし、素晴らしい経験をさせてもらっています。
私にとって小長谷さんは音の師匠であり、ともに音づくりをするパートナーであり、本当に困ったときに的確なアドバイスを授けてくれる、心の支えでもあります。また、年齢は30歳以上離れていますが、よくご飯に行ったり、一緒に野球観戦に行ったりする仲でもあり、少し不思議な関係かもしれません。
そもそも入社当初、自分がイヤホンの開発に関わるとは想像していませんでした。イヤホンは音響分野の花形製品であり、その開発は音の本質を突き詰めるような仕事だと理解しています。しかも、イヤホンは当時のTechnicsとしても新しいチャレンジでやりがいがあり、そのうえ、パートナーは会社のレジェンドである小長谷さん。本当に恵まれていますよね。
――AZ100の開発についても教えてください。
田中入社5年目の夏に、ワイヤレスイヤホンのフラッグシップ機種となる「EAH-AZ100(以下AZ100)」のメイン担当を任されました。AZ100には、小長谷さんがTZ700で採用した「磁性流体」が使われています。磁性流体は磁石に反応する液体で、これをボイスコイル部に充填することで上下に動くボイスコイルの動きを正確に保持し、音の歪みを低減しています。
磁性流体そのものは民生用としてさまざまな製品で使用実績はありますが、イヤホンのような小型の製品に搭載されることはなく、AZ100は完全ワイヤレスイヤホンとしては業界で初めて磁性流体を採用しました。
田中じつは、ほかのTechnicsのイヤホンでも磁性流体を使う構想はありました。しかし、コストや大量生産時の安定性といったハードルがあり、断念せざるを得ませんでした。それだけに、さまざまな試行錯誤の末に課題を乗り越え、AZ100での正式採用が決定したときは「ついにきたか」とワクワクしました。かつて衝撃を受けた音を、自分が担当するワイヤレスイヤホンで実現できるんだと。
もちろん、レジェンド機器と同じコア技術を使うからには社内外の期待値も上がります。小長谷さんが開発したイヤホンの後継ともいえる製品を、まだ経験の浅い自分がメインで手がけていいのかという葛藤もありました。
――田中さんは、開発のなかでどのような役割を担っているのですか?
田中私の役割はざっくりいえば音響設計ですが、音質に関わるあらゆることを担っています。
AZ100でいえば、TZ700のドライバーをAZ100にのせるための小型化と再設計、ドライバー周りの構造の検討、新しいイヤーピースの開発、内部の電池や基板やマイクといった部品の選定などですね。
いろいろな要素が、音に影響を与えます。満を持して磁性流体を採用したのに、こんなものかと思われるわけにはいかない。強烈なプレッシャーや不安を感じていました。
とはいえ、すべて一人でやるわけではなく、開発中はつねに小長谷さんが伴走してくれました。本当に心強かったです。
音づくりは独特の世界で、まずは周波数特性に基づいて音のベースを構築しますが、その先には技術者の感性に左右される部分もあります。
小長谷さんのなかではおそらく、こうすれば良くなるというイメージはあって、それをそのまま伝えればお互いにラクだと思うんです。でも、「この周波数をこう調整したら良くなるよ」ではなく、あえて私の感性に委ねるような表現をしてくれる。
その表現を自分なりに解釈し、調整した音をまた小長谷さんに聴いてもらう。小長谷さんと私の感覚を擦り合わせていくような作業です。入社から5年、そんな小長谷さんとのやりとりのなかでたくさんの気づきを得ましたし、成長させてもらったと感謝しています。
田中さんから小長谷さんへ。6年目の初手紙
今回の記事では2人の関係性を紐解くために、田中さんから小長谷さんへ「手紙」をつづってもらいました。師匠の経験や、プライベートな音楽の話は、面と向かってではなく手紙だからこそ聞ける質問。この2人のやりとりから、お互いに対するリスペクトと絆を感じ取れるはずです。
田中聞きたい内容を5つにまとめました。まずお聞きしたいのは、小長谷さんが「音」の仕事を志すことに繋がった原点について。次に、音づくり、ものづくりに対する姿勢や考え方についてもあらためて伺ってみたいです。そして、小長谷さんは「未来の音づくり」に対して、どのように向き合っているのか。そんなことも聞いてみたいです。
最後に、これは質問ではなく個人的な願いなのですが、小長谷さんに育てていただいた私たちが5年後、10年後につくった製品の音を、ぜひ聴いてほしいと思っています。そのときに「良い音だね」と言っていただけるよう、小長谷さんのような情熱を持って音づくりに向き合っていきたいです。
小長谷さんからの返信メッセージ
田中くん、手紙をありがとうございます。質問に答える前に、普段はなかなか言えないお礼の言葉を伝えさせてください。田中くんと私は30歳以上も歳が離れていますが、今も現役の技術者としてフレッシュな人と一緒に開発ができていることに、素直に喜びを感じています。田中くんは私に「育てられた」と書いてくれました。でも、私としてはそんな感覚はなく、ともに音をつくる仲間だと思っています。本当に、いつもありがとう。
最初の質問、私の音の原点について。レコードに針を乗せると、スピーカーから音が出るという不思議さからオーディオに興味を持ち、自分で初めてステレオのセットを組んで聴いたレコードはリンダ・ロンシュタットの『風にさらわれた恋』というアルバムです。現代のハイレゾとはまた違う一品一様とも言えるレコードならではの良さがあり、いまでも繰り返し聴いています。
そこからさまざまな音楽を聴き込んでいくうちに気づいたのは、オーディオにはアンプやスピーカーなどさまざまな製品があって、一つひとつのデザイン・技術が音に関係していること。優れた製品ほど、理にかなったデザインや設計になっていることです。単なる機械ではないオーディオ機器の奥深さに惹かれ、のめり込んでいきました。
次に、ものづくりに対する姿勢や考え方ということですが、まず、TZ700でやり残したことはありません。1年以上にわたりひたすら「良い音」を突き詰めて、これまでのイヤホンとはまるで違う自分がイメージした通りの音を出すことができました。研究開発、製品設計から量産ラインの立ち上げまで、やりたかったことをすべて実現できた製品だと思っています。
それが、現在までの継続したイヤホン開発の流れに繋がっているというのも、非常にうれしいことですね。
ものづくりで大事なことは、日ごろ何度も言っているように、ユーザー様に届ける一つひとつの製品が、良い音であるよう設計、量産できるようにすることです。
田中さんは音響以外の技術者とも論議を重ね、量産現場にも足を運び改善を図っており、頼もしく思っています。
また、開発に対するモチベーションは、音が好きで、少しでも良い音で好きな音楽を聴きたいという一心。これに尽きます。このことは、私の上の世代や若い人たちも含めて、オーディオに関わる技術者、そしてユーザー様はみんな同じ思いを持っているのではないでしょうか。
しかも、それを自分でつくり出すことができる喜びは、すでに田中くんも十分に感じていると思います。
そして、これからの音づくりについて。私たち音の技術者をとりまく環境は、日を追うごとに変化しています。技術はどんどん進歩していて、ワイヤレスイヤホンにおいても次々と新しい手法が生まれてきました。かつてのレコードがCD、ハイレゾになって音楽体験が劇的に変化してきたように、技術や性能のベースが上がると「聴こえ方」も変わってきます。たとえば、昔のイヤホンでは聴き取りづらかった楽器の繊細な音色まで、まるで生演奏のように表現できるようになってくると、人が感動する音というのも変わってくるのではないかと思います。
だからこそ私たちは技術の進歩に目を向け、それに対応して、その時々の「良い音」をつねに追い求めていかなければいけない。そういう意味でも、あたらしいことに垣根のない感覚や考え方を持った田中くんたち若い世代と一緒に仕事をすることはすごく大事で、いつも学びや刺激をもらっています。
5年後、10年後、田中くんたちがつくった新しい音を聴くのは、本当に楽しみです。オーディオ機器というのは不思議なもので、携わる技術者によって十人十色の音が出ます。良い音はひとつだけと限られたものではありません。音づくりのプロとしてさまざまな経験を積み、さらに大きくなった田中くんの感性や人となりが感じられるような音を期待しています。
音響の「理論」に、技術者の「感性」を掛け合わせた音づくり
最後に、あらためてお二人に対面でミニインタビューを敢行。音に対する感性の大切さや、Technicsの未来について話を伺いました。
――「良い音」は個人の感性によって異なるようにも思えますが、お二人はそれをどう共有しながら音をつくっているのでしょうか?
小長谷たしかに感性もありますが、ベースとなるのは理論に基づいた音づくりです。私たちが考える「良い音」の95%は、音響、構造、材料、電気といったさまざまな理論や数値によって示されるもので、特性という音の裏付けがあります。感性が入り込む余地は、残りの数%です。理屈から外れたものにいくら感性を入れても良い音にはなりません。
当然、Technicsのイヤホンとして目指すべき音の特性があります。それは私がTZ700の開発時に追求してきたものなのですが、ワイヤレスイヤホンのAZシリーズにも引き継がれています。
田中そうした音の特性を共有しながらの音づくりがあったうえで、残りの数%は小長谷さんと意見交換しながら追い込みを行っていきます。僕が追い込んだ音を小長谷さんに聴いてもらって意見をいただくのですが、こっちがどこをどういう意図で変えたのかまで、小長谷さんには見抜かれているような感じがしますね。
小長谷感性の部分は数%といっても、その微妙な追い込みによって音が良くなることも、逆に駄目になってしまうこともあります。もちろん理論が重要なのですが、本当に最後の最後は数値で語れないところがありますね。世の中には無数の楽曲があり、すべてに対して万能に良い音とすることは簡単ではないですが、日々、田中くんたちと議論しながらその難題にトライしています。
私は、こうした会話はお互いに信頼できる者同士だからこそ成り立つと思っています。音の感性はそれまでの音楽体験などによってかたちづくられるものですが、田中くんと私では年齢も、これまで聴いてきた音楽も違います。
やはり感性が合う人もいれば、合わない人もいるはずですが、田中くんに関してはその点での不安はまったくありません。感性が合うパートナーだからこそ方向性がしっかりと定まり、早く音の到達点まで行ける。私が聴かないタイプの曲も、彼がいてくれることでカバーできています。後輩ではありますが、お互いに高め合っていける非常にありがたい存在だと思っています。
そして、そんな音への想いを貫くには、組織からの理解も必要です。TZ700は、私の音に対する想いに応えてくれる組織責任者、生産メンバーがいたことで、製品化が実現しました。有線イヤホンと比較して、ワイヤレスイヤホンの開発はより大きな組織で開発を行います。スピード感を持って精度の高い設計を実現するために、私たち音響設計だけではなく、Technicsの音に対する理解者を増やしていくことが重要なのです。
音の専門家としての成長、追求に終わりはない
――お二人はまさに強い信頼で結ばれた師匠と弟子のように感じられます。小長谷さんがTechnicsにおける音づくりの"後継者"の一人である田中さんに対して、あらためて伝えておきたいことはありますか?
小長谷一つ言えるのは、音の追求に終わりはないということ。多くの音楽を聴き、その音がどのようなものかを自分自身で受け止め、理解し、自分が創りあげていく音をイメージできるようにと深めていく。つねに新しい感性で、追求し続けることが大事です。
なぜなら、人が音楽を聴く際の心情は、個々の人生経験、生活様式、音楽環境にリンクしていて、一様ではありません。音楽を聴く感動はつねに変化、進化するものであり、そのなかで新たな感性を持って製品開発を続けていかなくてはいけない。
もちろん、私自身も今でも日々勉強だと思っていますし、田中くんにもそういう気持ちで音づくりに向き合ってもらえたらと思っています。
田中肝に銘じたいと思います。僕自身、入社してから5年間でさまざまな音響製品に触れ、多くの音楽体験を積み重ねたことで、音づくりの技術者として少しずつ前に進んでいることを実感しています。
たとえば、製品ができあがると著名なオーディオの評論家の方にレビューをしていただくのですが、当初は正直、一方的にご意見をうかがうだけで終わってしまうことが多かった。そこから経験を積んで、徐々に「会話」ができるようになっていきました。
直近のAZ100でも大御所の先生にレビューをいただくためご自宅へ伺った際に、製品のことだけでなくスピーカーやオーディオセットのこと、楽器のこと、音楽理論についてまで話が発展して。そうした会話ができるくらいまで、自分のなかで経験値が積み上がってきているんだなと感じましたね。ものをつくるだけではなく、たくさんの音楽に触れていかなければいけないと思っています。
――音づくりのプロとして、Technicsのブランドをつくる一人として、今後やってみたいことなどはありますか?
小長谷田中くんの下にも、さらに若いメンバーが2名いるのですが、これまであまり一緒に音づくりをする機会がありませんでした。私がやり残したことがあるとすれば、まさにそこです。その2人からも田中くんと同じように、会話をしていて自分自身の感性が刺激される部分がありますし、もっと密に関われればと思っています。
もちろん、私が伝えられることは伝えていきたい。そして、いつか田中くんも含めた3人がつくった製品で音楽を聴くことが、今一番楽しみにしていることですね。
田中今後については、まず音響機器のプロとして、自分を磨き続けていくこと。あとは、チームづくりですね。もちろん、小長谷さんともずっと開発をしていたいですし、後輩たちや自分と似た感性を持つ人とともに音を追求し続けていきたい。その結果、多くの人に製品を購入いただき、良い音だと感じていただけたら、これ以上にうれしいことはありません。そんな喜びを一緒に共有できるようなチームをつくっていきたいです。
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Profile
田中 悠(たなか・ゆう)
パナソニック エンターテインメント&コミュニケーション株式会社 スマートコミュニケーションBU ハード設計部
2019年入社。大学では音声に関する研究を行い、音声コミュニケーション機器の開発に携わりたいと思い当社を志望。入社後はヘッドホン事業に配属され、Technicsのワイヤレスイヤホンの音響開発・設計業務を担当。
私のMake New|Make New「日常」
食事、趣味、音楽。人々の日常には、気づいていない小さな幸せがちりばめられています。そんな誰かの日常の”音”を、アップデートする製品を開発していきたい。
小長谷 賢(おばせ・さとし)
パナソニック エンターテインメント&コミュニケーション株式会社 スマートコミュニケーションBU ハード設計部
1986年入社。CDプレーヤーなどのオーディオ機器、ノートパソコン用光ディスク記録再生機、デジタルカメラの鏡筒の設計に従事。2015年よりTechnicsの音響設計を担当し、主にスピーカーユニット、ヘッドホン、イヤホンなどの製品開発を手掛けてきた。
私のMake New|Make New「Creation」
無から形を創り出すことが開発の原点と考えてきました。その結果が「音」であることで、無限の創造性、パワーが湧き出てきます。